【第1回・後半】 堀田 大 シェフ
Monsieur Hiroshi Horita
<1984年 第2回現代フランス料理技術コンクール>
パリ本選で日本人として初めて第1位に輝く(現在ジャポンの審査委員長)
料理人の総合力が問われる最高峰の料理コンクール「<ル・テタンジェ賞>国際シグネチャーキュイジーヌコンクール」。日本大会優勝者に当時の様子などをお伺いするインタビューの記念すべき第1回目は堀田大シェフです。
後編では、日本での大会を終え(前編)、パリの本選のお話をお伝えします。
そして、日本で優勝してフランスへ。パリ本選は今より人数が多かったみたいですね。
「今のテタンジェコンクール本選は6人くらいしか出場してないけど、12人のファイナリストがいたよ。イタリア、ドイツ、アメリカ、イギリス・・・フランス人の候補者は6人くらいいたかな。当時の通訳さんの話によると審査員も24人いたようだよ。審査員長は日本でも審査をしてくれたリュシアン・オージエシェフで。彼は本当に素晴らしい人でみんなから尊敬されてたよね。あとはジョエル・ロブションシェフも審査員でいたよ。」
パリの本選の課題は?
「課題はオマールエビのターバン風と牡蠣のシャンパーニュグラタンを5時間5分以内に仕上げること。5時間5分を1秒でも過ぎると減点されていくんだよね。審査はくじ引きをして順番を決めて時間差で調理場に入っていって・・・僕は1番だったよ。
出来上がった料理を厨房の外にあるテーブルにおいて・・すべて調理が終わったら全員が終わるまで控室で待機して。当時から調理場審査員はちゃんといてね。終了何分前って教えてくれてたね。関係ない人は1人もいなくて厳正な審査だったよ。そうそう、今みたいにコミ(現在はくじ引きでフェランディの学生がコミとして付きます)はいなかったよ。」
そんなに大人数で緊張しませんでしたか?
「知らない人ばかりで、逆に全然緊張しなかったよ(笑)。フランス人は周りみんな知り合いだったようだからかえって緊張したんじゃないかと思うよ。
今の会場はフェランディ(パリ市商工会議所が運営する料理学校)ですが、当時はどこでしたか?大変だったことはありますか?
「当時はコンコルド・ラファイエットホテルのメインの調理場だったよ。とても広くて、鍋類も大きくて。ものすごく大きい宴会場の厨房だったから小さい鍋類が少なくてね。ヨーロッパの候補者は鍋類を持ってきてる人たちがほとんどだったから、小鍋類は取り合いにならなくてよかったよ(笑)。あと足りない分はデパートでボールやバットを購入して実技審査に臨んだよ。道具類のことが一番大変だったかなぁ。フランスの厨房を知らない人には大変だったと思うよ。」
優勝としてお名前を呼ばれたときはどんな気持ちでしたか?
「やっと終わったという気分でいて・・・表彰式で名前を呼ばれたとき、最初は自分が呼ばれてるってわからなくて(笑)、隣の人につつかれて、ようやく気付いたんだよ。」
もちろんパーティもコンコルド・ラファイエットホテルで?
「その時はクロード・テタンジェさんの友人であるアメリカ大使の送別会も兼ねていて。実技審査の翌日に表彰式があってその後にディナーだった。それが1000人位の大規模パーティでね。赤い絨毯が敷いてあって・・・テタンジェ家の余裕さが感じられるパーティだったね。入り口には衛兵姿の人が2人立っていて2頭のドーベルマンを従えてたのにはビックリしたよ。」
メディアもたくさん取材に来たと聞いておりますが?
パーティの翌日にはフランス国営放送の取材がきて、日本ではフジテレビの幸田シャーミンさんの番組でもその様子が放映されて、各国のニュースダイジェストにも記事が掲載されたよ。成田空港に着いたときにはフジテレビのカメラが待ってる状態で、一般紙やフライデーも取材に来ててびっくりしたよ。
それまでは一流レストランの料理人が賞を取ったりしてきたけど、僕みたいに結婚式場・宴会場の料理人が優勝して、そういう人たちの励みになったんじゃないかな。」
コンクール後から現在に至るまでお話を聞かせてください。
「入社当初から話をすると昭和40年から平成13年まで50年近く東洋軒で働いて・・・もちろん辞めたくなったときもあったよ。入社して、3年・5年・7年・9年目にそれぞれ辞めたくなったけど、フランスやスイス、イタリアに旅行や修業しに行かせてくれたりしたから辞めずに頑張れたかな。
東洋軒退社後はホテルやレストランの顧問、食材のコーディネイトや協会関係の仕事をしています。今はもうないけど、当時30代のシェフを集めて『クラブドトラント』に参加したり、『全国フランス料理連絡協議会』という会を作ってコンクールをしたり・・・この協議会は各地に今でも残っていて、個別にはみんなとつながってるよ。」
料理人として生活してきて、一番楽しかったことは?
「楽しかったことは覚えてないね(笑) でも、東洋軒では年に6回くらいフェアがあって、夏はシャンパンメインのディナーをやったり、シェーブルのみのコースをやったり、メニューをその時の状況で瞬間的に変えてみたり、そういうのはいろいろやってて楽しかったなぁ。」
これからコンクールを目指す若手の料理人の方たちにメッセージはありますか?
「何よりも食べた人が幸せになるような『美味しいものを作ること』。それはお客様に出すときもコンクールのための料理でも同じ。写真撮りのための料理だって美味しく作らなきゃ。あとはガルニチュールでもなんでも意味のある食材の使い方、メインを引き立てるような使い方が大事。ポテト一つ取ってもフライ、マッシュ、煮物、ゆでたもの、いろんな調理方法があるけど、その調理法の目的や意味がないとね。食材を一つ一つ大事に使ってください。
あとはソースだって食材に合わせてアレンジしないとね。例えばディアブルソースだって、メインの食材がどんなものなのかによって、同じ作り方はしないようにしなきゃ。
美味しいものを食べて味を知り、食材のことを知って、意味のある使い方をして、美味しい料理を作れるようになってください。」
◆堀田 大 シェフ
1947年大分県竹田市出身 市民栄誉賞受賞
(株)東洋軒常務取締役総料理長、総支配人を経て、平成13年株式会社マンジュトゥーを設立、代表取締役社長。第二回フランス料理技術コンクール(ホテル・オークラ)、第18回ピエール・テタンジェ国際料理コンクール(パリ)など多くのコンテストで優勝。(社)エスコフィエ協会、副会長、フランス料理最高技術者協会名誉賞受賞(フランス)バーテルクラブ名誉会長(ニューヨーク)(社)全日本司厨士協会 最高技術顧問、アカデミーキュリネール会員(フランス)、トック・ブランシュ国際クラブ理事/ 事務局長、<ル・テタンジェ賞>国際シグネチャーキュイジーヌコンクール日本大会審査委員長、厚生省・労働省の調理技能評価試験試験委員などを歴任し、料理人として美味しい料理を提供するだけでなく、後進の育成や地域の食育活動など料理の分野で幅広い活躍を行っている。